江戸から東京
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清隆寺とその歴史

本光山清隆寺は九州肥後(熊本)の大名、細川候により創建された
日蓮宗の仏教寺院で、寛永十五年(西暦1638)妙行院日徳を
開山として開闘されました。
正式には「本国土寂光山、清正隆盛寺」といい、戦国時代の大名で
ある熊本城々主・加藤清正公を神として祀る清正公のお寺であり、
江戸時代は直参旗本が中心となってお寺を護っていました。
元々は高貴な方の庵室であったのを寺院にしたのが始まりで、
この規模の寺院には珍しく「使者の間」が設えてあり、特別な役割を
担っていたことが伺えます。
歴代の住職は関東の中村檀林(大学)の化主(学長)や玄能(教授)
が多く在籍し、学僧に仏教や宗学を学ばせており、九州の総本寺で
あり加藤清正公の菩提寺である熊本本妙寺の歴代住職に名を連ねています。
その土地は清浄であり、地盤が良く傾斜地の頂点に建ち水害はなく、
北西は氏神である赤城明神に護られ、玄関口は真東南を向き緩やかに下り
その先には江戸城(皇居)があります。右手に行くと商店が並んで賑わい、
左手に行くと神田川が流れて船に乗る事の出来る交通の要所でした。
御本尊は法華曼茶諸尊、久遠本師釈迦牟尼佛と真実証明の多宝如来、
本化上行日蓮大菩薩を中心とした一塔三尊像形式になります。

清隆寺とご祭神

一塔両尊佛像

法華経の仏の世界を文字で表した曼荼羅本尊を仏像として造形化したもので、中央に南無妙法蓮華経と欠かれた宝塔があり、その左右最上段に釈迦如来・多宝如来の二仏を配置し、正面に末法に出現すると予言された上行菩薩として日蓮大菩薩を安置し、信仰するべき「仏・法・僧」の三宝を表現している。

三十番神

天照大神や八幡大菩薩を初めとした日本国中の三十柱の神々が、1ヵ月30日を交代で国家と国民を守護する。日蓮宗では、この日本の神々を仰いで現世利益の祈願を捧げる慣わしが古くから行われています。順に、熱田、諏訪、広田、気比、気多、鹿島、北野、江文、貴船、伊勢、八幡、賀茂、松尾、大原、春日、平野、大比叡、小比叡、聖真子、客人、八王子、稲荷、住吉、祇園、赤山、建部、山上、兵主、苗鹿、吉備の各神。
 当山の三十番神は佛縁あり新潟県法華宗陣門流総本山本成寺管長小松法順猊下感得の三十番神を新たに遷座した社殿です。

清正公大神祇

加藤清正公は智・仁・勇の三徳を兼ねる名将として知られ、武運が強く常勝無敗であったこと、平民から一国の大名にまで立身出世したこと、国を良く治めて領民から篤く慕われたこと、後の肥後熊本藩主細川候から大切に敬われたこともあり御薨去の後に「清正公大神祇」という名で神として祀られました。
 加藤清正といえば「虎退治」の逸話から荒々しい「武」のイメージが強いですが、実は領地である肥後(熊本)の治山治水や新田開発などに力を入れ、南蛮貿易に乗り出すなど積極的な領地経営を進めたので、国は豊かになり領民からは神様のように慕われるようになりました。

 清正公大神祇の名称から「せいしょこさま」とも呼ばれています。当山の守り本尊である清正公大神祇は、目黒白金・浅草田圃と並び牛込赤城の清正公、通称「赤城のせいしょこさま」として多くの方に親しまれ、熊本本妙寺・大分法心寺と一木三体と口伝せられる霊像であり、古くから立身出世・開運必勝・学業成就・発育増進など子供の守護神として知られその霊験は灼かで、勝海舟や佐野鼎、初代立花家橘之助、綱要導師・一妙院日導など、僧侶・俗人問わずに、傑僧、傑物を多く輩出しております。

《御利益》
立身出世・発育増進・智恵明瞭・身体健全・開運必勝・試験合格・受験合格・商売繁盛・
転職運・仕事運・運気上昇・勝負事・試合勝利・選手育成・建築設計・事業繁栄 など